―――恋に落ちる、音を聞いた。
かつて流行ったフレーズだが、その音を奏でたのは勿論俺ではない。
俺の隣に居る、【一応】俺の恋人である男だ。
目の前にはまるでビスクドールのように美しい女性。
誰もが振り返るような女性に、平凡な俺と違いまるでダビデ像のように逞しく美しい男が見蕩れる。
それは絵画にすべきだと誰もが訴える程に美しく、俺の隣に居るよりも、ずっとずっと相応しい光景だった。
―――寧ろ、彼を縛り付けていた俺の方が相応しくない。
俺は未だ見蕩れ続ける彼からそっと距離をとる。
元々3歩後ろ………どころか人二人分くらい後ろを歩いていたから、
多分こういう状況じゃなくても彼は俺が居なくなることに気付かないだろう。
彼女がゆっくりと顔を動かし、彼と目が合う。
再び恋に落ちる音がして、代わりに俺の元からボロボロだった恋が死んでいく音が聞こえた。
けれどもこうなる事は分かっていたことだ。
一歩、彼が彼女に向かって足を進める。
それを合図に俺は、踵を返して走り出す。
分かっていたし、覚悟もしていた。
それでも俺は、彼が愛しい人を見付けるその瞬間に立ち会いたくなんてなかった。
だって、本当に好きだったから。
彼と俺が付き合えたのは、高校生の頃。
理由は単純で、利害が一致したからだ。
彼に勇気を振り絞って告白した彼と付き合いたい俺と、
好きでもない相手から告白されまくっててうんざりしていた彼。
付き合うっていっても防波堤にするつもりなだけだから男と付き合いたい訳でもない、
だから当然キスもセックスもしないけどいいかという彼の情けで、
俺は見事に彼の恋人という誰もが憧れる位置を獲得した。
宣言通りキスもセックスもしないし、デートなんて月に一回お情けでしてもらう程度だった。
手を繋いだことなんて一度もない。
そんな状況で恋人かといわれると微妙だが、でも高校も大学も卒業して、
そして互いに社会人生活二年目に差し掛かろうとした今日という日までこうして会ってくれたんだから、
きっと今の今までは恋人だったんだろうと信じたい。
じんわりと溢れてきた涙を乱暴に拭いながら、さてどうしようかと考える。
別れるに至って、合鍵を持っている訳じゃないし形の残るプレゼントをやりとりした訳でもないから返すものも何もない。
会う時はいつも外で、しかも数時間程度のものだったから互いのプライベート空間に私物を置いてるとかそういうのもない。
………なんか、状況を整理すればする程、本当に付き合ってるのか微妙になってきたな。
でも俺の中では確かに付き合ってた。
『今までありがとうございました。どうか、貴方の今後の人生が、
俺に踏み躙られた年月よりも長く幸せなものになりますように。』
俺はメッセージアプリでそれだけを送り、彼をブロックした。
電話番号は知らない。
メールアドレスも、SNSも。
ただ一つのアプリだけで繋がっていた関係は、指先一つでこうもあっさりと終わるものだったらしい。
今までの思い出も、写真で残すことはなかったからこそスワイプ一つで簡単に無かったことにだって出来る。
便利で寂しい世の中だな………。
「アレ?もしかして下館(しもだて)?何してんの?」
「………え?」
スマホの画面を見ながら喪失感に打ちひしがれていると、聞き覚えのない声が背後から聞こえた。
一体誰だ?
驚いてスマホを取り落としそうになりつつも振り向くと、そこにはラフな格好をした見覚えのある陽キャイケメンが居た。
「え?銀山(かなやま)、さん?」
「あ、よかったー!知らない人扱いされたらどうしようかと。」
ケラケラと笑いながら俺の隣に自然と立ち、何してるの?と朗らかに聞く銀山さんは俺と同じ会社に勤める同期だ。
同期、といっても俺は経理の下っ端で彼は営業のトップ3だから、住む世界が全然違うんだけど。
クールで無骨な印象のある彼とは違い、彼は優し気な笑顔とふわふわとした話し方が特徴だ。
ありきたりな言い方で言えば、彼は騎士で銀山さんは王子様といった感じか。
「で?何してんの?」
「………ん。予定が無くなったんで、帰る所です。」
俺の顔を覗き込むように聞かれた問いに、俺は曖昧に濁しながら逃げをうつ。
銀山さんを含めたうちの社の営業トップ3は、良くも悪くも派手だ。
三人共同期………つまり俺と一緒で入社二年も経ってないのに、
他の先輩達を軽々と飛び越えて三人でトップの座を飾った。
何を考えているか分からない程に表情に変化が無い秋元、
外面は良いが社内では我が強い蘭(あららぎ)、
そして口が軽くお調子者だが他人の懐に入るのが人一倍上手い銀山。
この三人共、まるでモデルのようにスタイルが抜群で顔が良いがとにかくクセが強い。
俺みたいな拗らせゲイ陰キャは関わりたくない存在だ。
ただ顔は好みなので、観賞だけはさせてもらいたい。
「ふぅん。じゃあさ、今暇ってことだよな。」
「えっ、あ、いや………どうだろう?」
まるで狙いを定めたような視線に、思わず目を逸らして曖昧に誤魔化す。
しかし、そんな動作にけして誤魔化されてくれないのが銀山という男だ。
にんまりと、まるで御伽噺の狐のような顔で笑うと、俺の手を取ってずんずんと歩き出した。
「ちょ、ちょっと!」
ついさっきまで居た彼氏(?)とすら手を繋いだことなかった処女拗らせゲイに、これはあまりにもハードルが高過ぎる。
心做しか、周りの人達が怪訝そうに見ている。
恥ずかしいし、拗らせ過ぎた初恋を殺した直後にこれは惨めだ。
心底止めて欲しい。
「安さの殿堂に行こうぜ。今度蘭が誕生日だからさ、激辛クッキーあげようぜー。」
「え?蘭さん、辛いの好きなの?」
「いや?確か寧ろ死ぬ程苦手だった筈。」
それただの嫌がらせじゃん。
てか今の言い方、俺も連名にするつもりか?もしかして。
「え、嫌だよ!俺が悪くなっちゃうじゃん!」
「大丈夫だいじょーぶ!」
何がだよ!
そう吼えたいのに、しっかりと手を繋がれて逃げられない。
結局、なんだかんだと騒ぎながら安さの殿堂に行き、
そしてなんだかんだと騒ぎながら全く関わったことのない蘭さんへのプレゼントを、
今日の今日まで関わりの無かった銀山さんと共に選ぶという濃い休日を過ごす羽目となってしまった。
でもそのおかげというかなんというか………
銀山さんと会う直前まで確かに抱いていた喪失感は、小さくふわふわと雪のように儚くなっていた。
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