柔らかな、温かな熱を感じる。
それは俺がまだずっとずっと幼かった頃から、夢見ていた熱なような気がした。
ゆっくりと離れていくのが寂しくて、思わず手を伸ばす。
でもこの熱は誰のもの?
嗚呼、あのひとならいいのに………
「カヴェル………」
「いけない子だ、シルファ。そんなにお仕置きされたいかい?」
思い描いていた人物と全く違った声が聞こえ、俺のフワフワとした思考が一気にクリアになる。
思わず身を竦ませようと動かした身体は、何かに固定されているのかガチャガチャと音を立てるだけで動かせなかった。
拘束されている理由も分からないが、目の前に居る人物も意味が分からない。
「な、何故貴方がここに………!カナルディア伯爵令息様!」
そう。
目の前に居たのは俺の………否、【シルファ】の元婚約者、カナルディア伯爵令息その人だった。
けれど、けれど何故彼が俺の目の前に居る?
この国から見れば、隣国の伯爵令息だぞ?
それに何故そんな、愛しいものを見るかのような瞳で俺の頬に触れる………!
「カヴェルは、君に一目惚れだとか言っていた下賎な冒険者の事かな?」
「………彼を斯様に表現するのはおやめ下さい。」
見慣れた冷たい瞳で見下されながら告げられた言葉に俺は噛み付いた。
彼は確かに軽薄そうな言動をするが、時にはその身を賭して街や人々を護る人だ。
煌びやかな世界で守られる側の人間が、見下して良い人間じゃない!
それともう一つ、俺にはどうしても気になるし腹立つことがある。
「それと、俺と一緒に居た彼はどうしたんです?」
俺と一緒に居たはずの同僚が居ないことだ。
もしかしたらこのどことも知れない部屋の、視界に入らない場所に居るのではないかとも思うが、それすらも分からない。
「ああ、彼なら心配しなくていい。私が欲しいのは君だけだからね。彼は特に何をする訳でもなく置いて来たさ。」
然しながらカナルディア伯爵令息は俺の頬に触れたまま、まるで鼻で笑うかのような軽さでそう言った。
言われた言葉の半分以上は理解出来なかったけれど、だからこそ、言い様のない恐怖を感じる。
「それを信じろと?」
「平民を無駄に殺して何になる。」
「ならば平民を拐かしてどう貴方の利になるというのです?」
震えそうになる身体を必死に抑えながら、俺はカナルディア伯爵令息を睨みつける。
大体、彼はどうやって俺の存在を知ったんだ?
シルファは確かに死んだ筈で―――
「………五年。長かった。私にはまるで永遠のように感じたよ、シルファ。」
スっと俺の頬から喉にかけてを指で撫でられる。
まるでナイフを突き立てられているような感触に、俺は息を悲鳴ごと呑み込んで耐える。
騙しプライドを傷付けた俺を嬲り殺そうというのか?
「昨日まで会っていた人間が次の日には面会謝絶程の病に陥ったと………そして二ヶ月後に死んだと聞かされた私の気持ちが分かるか?」
「………感染する病かと、思われましたか?」
「いいや、違うよ。否、いっそ感染していれば良いとすら思った。」
ギシリと、何か軋む音がして心做し俺の体が沈む。
多分、俺はフワフワとしたベッドの上で寝かされた状態で拘束されているのだろう。
床じゃなく?
ますます意味が分からない。
この状況も、先程から彼が紡ぐ言葉も。
「まず結論から言おう、シルファ。私と君との婚約は破棄も解消もされていない。」
「は?」
彼から告げられた言葉に、思考が止まりかける。
破棄も解消もされていない?
俺は間違いなく死者になった筈だぞ?
御者だった彼からちゃんと報告を受けたから間違いはない!
葬儀は恙無く執り行われたのを確認してから逃げたと!
「な………何故!俺は、否、シルファという人間は死人の筈だ!」
「私が覆したからだ。シルファ、君の墓を暴いてね。葬儀の日の深夜、私自身の手で掘り返した。」
墓を暴いた?
しかも自分の手で、だと?
何故そんなことをした?
シルファという人間が居なくなれば彼は愛する人と結ばれる筈なのに、どうして!
「棺をこじ開け、空であることを確認した時の私の気持ちが分かるか?
歓喜だ!君が生きているという事実に、まだ君の視界に入ることが出来るという事実に私は歓喜した!」
歌うように高らかに、彼はそう言った。
何故、歓喜する?
おかしい、誰かと間違えているのだろうか?
ただ指先で喉を撫でられているだけなのに、まるで首を絞められているような錯覚に陥る。
明らかな狂気に、脳が侵されていくのを感じた。
「それなのに君は【昔から】かくれんぼが得意なものだから、見付けるのに五年もかかってしまった………
まさか隣国に隠れているなんて思いもしなかったよ。」
カナルディア伯爵令息が身をかがめて顔を近付けた。
【俺】がまだ【私】だった頃、夢に見る程焦がれた距離。
けれども【俺】にとっては、恐怖以外の何物でもなくて………
「半年近く前にやっと見付けた。だから見付けたということを報せる為に花を置いたんだよ。」
恍惚とした表情でそう言われ、俺はゾッとした。
それならばいっそ、カヴェルが犯人だったらどれ程良いかとも思った。
逃げたいけど、身体が動かない。
身じろぎ一つ出来なくて、恐怖で呼吸が荒くなる。
「それなのに君はあんな男に口説かれて………私は寛容だから許すけど、普通ならば不貞と判断されても仕方ないんだよ?」
「ふざ………けんなよ!俺とアンタはもう終わってるし、そもそも不貞していたのはアンタだろうが!」
恐怖に呑まれないよう必死に噛み付く。
しかしそんな俺の必死な反抗に、彼は何故か唖然とした表情をしている。
なんだ?
まさか俺が反抗するとは思わなった………とか?
「私が不貞とは、何の話だ?」
「………は?いや、あの男爵令息とお付き合いされてましたよね?俺と最後に行った夜会でも逢瀬を………」
「逢瀬?何故君以外とそんなことをしなければならない。」
「知りませんよ。夜会はいつも貴方に放っておかれてましたし、かと思えばあの令息と寄り添って歩かれてますし………」
事実をつらつらと言っているのに、何故か何言ってんだコイツという顔をされる。
何でだよ。
え?コイツ自覚無しで俺のこと放って不貞行為してたの?
こわッ………
「確かに夜会では敢えて放っていたが、不貞は誤解だ。嗚呼………」
聞き捨てならないことを言ったかと思えば、怪訝そうな表情は徐々に恍惚とした表情へと変貌していく。
嫌な予感が止まらない。
「妬いたのかい?シルファ。可愛い………」
もう一度俺の頬に手を添えて彼はそう言うと、何故か顔を近付けてくる。
一体何を言っているのだろうか?
確かにかつて【私】は嫉妬はした。
気が狂いそうな程に嫉妬し、嘆き、苦しんだ。
それをたった一言だけで終わらせるとでもいうのか!?
「………っ!」
「ふざけるな………ふざけるな!!」
重なろうとした唇に、俺は思いっ切り歯を立てた。
口の中が血の味がして不快だけど、それ以上にもう彼の存在そのものが不快だった。
いっそ死んだら楽なんじゃないかとすら考えたあの苦しみを、そんな軽いものにしないで欲しい!
「確かに【私】は【貴方】のことを愛していた………でも【俺】はもう【アンタ】のことなんて好きでもなんでもない!」
まだ離れて五年しか経っていない。
けれども傷付き疲れていた時間が長過ぎて、そしてそれが癒されるには十分過ぎる程の時間だった。
新しい心が芽吹く土壌が出来上がるにもまた、十分な時間だった。
「イケない子だ、シルファ。放って置きすぎて拗ねたのかな?………大丈夫、これからもう、ずっと一緒だから。」
俺が付けた口元の傷を舐めながらカナルディア伯爵令息はそう言った。
それと同時に伸ばされる掌。
嫌な予感が止まらない。
嫌だ、嫌だ、嫌だ………!
「でもその前にお仕置だよ、シルファ。本当は夫夫の寝室で迎えたかったけど仕方ない。」
「い………嫌だ!やめろ来るな!」
抵抗したいのに、出来ない。
俺の貧相で着回され続けた安物の服は、カナルディア伯爵令息がほんの少し力を入れただけであっさりと破けてしまう。
そこまでされて何をされるか分からないなんて言う程、俺は純でもなければ馬鹿でもない。
「嫌!助け………助けてカヴェル!!」
「………その名を呼ぶな!」
乾いた音が響いたかと思えば、じんと頬が熱を持ち出す。
痛い………なんで、どうして………
「嗚呼、ごめんねシルファ。でもシルファがいけないんだよ。幾ら私に嫉妬して欲しいからとはいえ、他の男なんかを呼ぶから。」
舌が、唇が。
露出された俺の肌をナメクジみたいに這い回って気持ちが悪い。
ジュルジュルと音を立てて吸い付かれるのが、嫌で嫌で仕方ない。
【私】だった頃は彼にしてもらうことを焦がれていたけれど、でも【俺】は違う。
俺が、俺が身を委ねたいのは―――
「愛しているよ、シルファ。」
ぎしりと、大きく軋む音を響かせて俺の上へと伸し掛る。
ほろりと流れる涙は、【俺】のモノなのか【私】のモノなのか。
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