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婚約者が居る身でありながら平民の少女と不貞を働いて、
挙句の果てにその罪を棚に上げて平民の少女を虐げた己が婚約者を断罪し婚約破棄を告げる王太子。
なんて醜悪な、と思いながらも男もその醜悪な舞台に立っているのには訳がある。
男の婚約者もまた、その虐げた者として名を挙げられていたからだ。

「………申し開く事があれば聞くが。」

やってはいないと信じていた。
仮に虐げていたとして、何か理由があるのだろうと確信していた。
けれども男は少女自身の口から告げられる否定の言葉が欲しかった。
信じて欲しいのだと縋って欲しかった。
しかしながら、ゆっくりと顔を上げた少女は小さく首を横に振る。
それは確かに男を見ていたのに、けれども少女の瞳には男は映っていなかった。

「いいえ。貴方様が望まれるのであれば。」

答えになっていない答え。
そしていつも、少女はそう言って男に頭を垂れていた。
以前から。
出逢った時から。
婚約する事を告げた時から。
少女はそう言って、男に頭を垂れるのだ。
何も映さず、けれども全てを映している鏡のような瞳で。

「そうあれかしと、貴方様が望まれるのであれば。」

淡々とした声が、男の耳には響いて聞こえた。
周りに居る少女達は淑女らしからぬ形相で各々の婚約者に縋り付いているのに、男の婚約者である少女はただ受け入れていた。
それが男の望みなのだろうと、いつもの様に受け入れていた。
強く拳を握って、男は絶望が目の前を覆うのを感じた。
頼られたかった。
けれども少女はこんな時ですら、男を頼ろうとしない。
彼女にとって、自分は何なのだろうか。
嫌われてはいないという事実は確かにあったから、男はその事実に安堵していた。
胡座をかいていた。
けれどもそれは愚かな行為なのだと、今更ながらに気付かされた。
少女は確かに男を嫌ってなどいない。
けれども、好いてもいないのだ。

「敢えて私の望みをお伝えするのであらば、私の処遇は父と共にお伺いしても宜しいでしょうか。この場は少し、騒がしくあります故。」

………初めての望みが、それか。
そんな望みが聞きたい訳ではなかったと、男は握り拳に力を込める。
確かにこの場は騒がしく、そして誰一人とて男と少女の動向を気にする者はいなかった。
ならばこの少女の望みは男にとってチャンスなのではないかと、ふと思う。
彼女の家でゆっくりと話し合おう。

「分かった。君は先に邸宅に戻るように。………けして逃げ出そうなど思わぬ事だな。」

逃げるだなんて思ってはいない。
けれど男がそう念を押すように告げれば、少女は完璧な淑女の礼でそれに答えた。

「畏まりました。一度邸に戻りましたら、動かぬ事をお誓い致します。」

男は愚かにも、少女の返答に満足してしまった。
少女のその言葉に含まれた意味にも気付かずに。
愚かにも、思ってしまった。
少女とまた言葉を交わせるのだと。
まだ婚約者として隣に立てるのだと。

数時間後、少女が帰りの馬車で御者により無惨な方法で殺されたのだと聞くまでは。

少女の婚約者として、騎士団の一員として。
報せを聞いた男はまるで馬を潰すように急かして現場へと駆けつけた。

「アーノルド様………」

団員の誰かが男を労わるように声をかけたが、男には何一つ聞こえはしなかった。
ただ、目の前の光景を呆然と眺めていた。
全裸で放置されていたというその遺体は顔を潰され焼かれ、それでも飽きたりなかったのか腹は裂かれて臓物は引き摺り出されていた。
あまりにも無惨な光景。
まだ16の少女だというのに。
これから大人になろうかとしていた頃だったというのに。
一体彼女が何をしたというのか。
一人で帰すべきではなかったのだ。
自分も共に彼女の邸宅へと赴くべきだったのだ。
自責の念に駆られたまま、ふらふらと少女の遺体へと足を運ぶ。
見たくないのに、目を逸らせない。
近付きたくないのに、傍に行ってしまう。
そっと覗き込んだ顔は焼け爛れていて、あの鏡のような瞳も分からなくなっていた。
これは本当にあの少女なのだろうか。
信じたくない。
そんな思いで焼けてはいない綺麗なままの耳元を触れ―――

「アーノルド様?」
「………この遺体は、アーリア嬢の遺体で間違いないのか?」

絞り出すような声で男が聞けば、もう既に父親でもあるヴィステント侯爵には確認をしてもらっているらしい。
最も、直ぐに帰宅したそうだが。
つまりは父親であるヴィステント侯爵は気付いていないのか。
彼女とこの遺体との決定的な違いに。

「………そう、か………」

口元を掌で覆った男の小さな呟きに、傍に居た団員は痛ましそうな顔をした。
きっと問題児とは言え婚約していた少女の死を悼む、優しい男に見えていたのだろう。
その覆われた口元では、歓喜の笑みが浮かんでいると言うのに。

「(気付いていない。誰も。きっと、彼女自身も。)」

男は、知っていた。
少女の耳の裏側の付け根。
そこに小さなホクロがある事を。
綺麗に伸ばされ、痛みがないように手入れされた漆黒の髪に隠されたそれを、男は一度だけ見た事があるのだ。
悪戯な風によって乱された、その一瞬。
思わず唇を寄せたくなるような何とも言えない色香を漂わせながら現れたそれは、一瞬だけとはいえ男の目を離さなかったから覚えているのだ。
それを誰も知らない。
恐らくはあの目障りな、少女が唯一心を寄せていた執事でさえも。
その事実は、男に仄暗い悦びを与えた。

「………アーリア嬢や御者の周辺で、行方不明になった者は?」
「アーリア嬢の専属メイドと専属執事が行方が分からないそうで探しております。
執事に関しては、学園の門番が馬車に乗り合わせている所を目撃しておりますので何らかの関与があるかと………。」

つまりこの遺体はそのメイドで、執事は恐らくはアーリア嬢と共に居るのだろう。
駆け落ちかとも思ったが、それならばここまで凝った事をする必要性が分からない。
この遺体が少女なのだと思わせることが目的なのだとしたら、合意の上の駆け落ちと言うよりもあの執事が一方的に劣情を募らせ拐かしたのではないか?
そうだ、きっとそうに違いないと男は思った。
だから自分が助けてあげないといけない。
だって自分は、あの少女の婚約者なのだから。



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