「御前様、御前様。」
屋敷の奥から、家主を呼ぶ声がする。
どうやら奥の間で眠っていた細君が目を覚ましたらしい。
まるで母を呼ぶ幼子のような不安気な声で何度も何度も家主を呼ぶ。
答えてあげれば良いものの、とうの家主は笑いを堪えながら煙管に火をつけている。
全く以て、意地の悪い。
「八つ当たりをされるのは己なんだ。返事をしてやっては如何か。」
「あい、すまぬ。玉藻、玉藻おいで。」
手を叩きながら家主がそう呼べば、弾む様な声と共に近寄る気配。
まるで狗の様ではないかと、思わず紫明は笑った。
狐は確かにイヌ科であるから、強ち間違いではないのだけれど。
「お前様!お前様どうぞ玉藻のお傍に………!なんぞ、汝も居ったのか。」
細君は紫明を視界に入れるとあからさまに声を低めたが、それでも家主を見付けた嬉しさからかその太く立派な四尾を揺らしている。
やはり狗の様だ。
愛らしいなと笑えば、汝に言われとうないと睨まれる。
「妾は御前様以外の賛美など要らぬ。」
「君は美しいよ、玉藻の前。」
「そうであろう!そうであろう!」
家主の賛美に尻尾を振り喜ぶのは大層結構であるが、風下に居る紫明に飛んだ毛が降り注いでくる。
いい迷惑であるが、それもまたいつもの事。
紫明はそっと袖口で口を覆いながら、カラカラと笑った。
「彼奴は、どうしたのだ?」
ぱちくりと、目を瞬かせながら玉藻はそう言って辺りを見渡す。
どうやら愛しい子の不在に気付いたようだ。
家主はそんな細君の髪をそっと指で梳いてやりながら、どこに行ったのだろうねと歌うように紡ぐ。
「あの子は自由だからね。」
「やはり首輪をせねばなるまいて!」
「その心配は要らないよ。」
お気に入りの不在に気分を害した細君がヒステリックに叫べば、家主はするすると髪を編み込んで遊びながらも優しく宥める。
まったく、仲の良い夫婦だと紫明は一つ、欠伸を漏らした。
「アレは橋の向こうへと、渡れやしないのだから。」
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