僕よりも可哀想な人はいっぱい居る

気のせいではなく、僕は父にも兄にも好かれてはいなかったと思う。
病で亡くなった母と父は愛し合って結婚した訳でもないらしく、僕は見目麗しい父や兄と違って母に良く似た凡庸で地味な容姿だったから、そこも理由にあるんだろうなと幼いながらに分かっていた。
理解して、しまった。
そこから先にあるのは絶望。
確かに血の繋がりのある身内から厭われる悲しみ、どれだけ愛を注いでも寧ろ疎まれるという事実。
それはまるで真っ暗の中から一粒のビーズを探すようなものだと感じた。

『世界には、貧困に苦しみ死んでいく子供達がいます』

けれども流れてきたTVCMで、僕は可哀想じゃないんだとも知ってしまった。
愛されないだけで、僕は生きている。
相変わらず、父も兄も僕を見ない。
無視をして、僕が現れれば楽しそうな談笑を止めて口を紡ぐ。
それでも僕は食べる所にも寝る所にも困っていない。
だから僕は、全然可哀想じゃなかった。
可哀想じゃない僕の気持ちは、きっと救うに値しないのだろう。

「………失礼しました、どうぞ、気になさらないでください。」

一生懸命覚えた丁寧語を使って、頭を下げる。
水を飲みに来ただけだけど、ダメだったらしい。
仕方ないから外に出て、近くの公園で水を飲んだ。
鍵をかけられたらどうしようかと思ったけど、戻ったら鍵はちゃんと開いていた。
良かった。
ホッとしながら家の中に入り、足音を立てないように割り当てられている部屋に戻る。
いつ追い出されるか分からないから、荷物は整理しておいた方が良いのかもしれない。
とはいえ、僕に与えられた私物はそう多くない。
それでも昔お母さんと一緒にワークショップで作った、世界で一つだけのマグカップだけは持って行きたい。

ふと、お母さんが恋しくなって、僕は部屋にある姿見で僕を見た。
僕は父や兄に似ていない僕の顔が嫌いだ。
それでも、僕はお母さんに良く似ている僕の顔が好きだった。
だって鏡を見たら、お母さんといつでも会えるんだから。

だから泣いてはいけない。
だって、僕よりも可哀想な人はいっぱい居るんだから。

*****

じわじわとした苦しさは、父が再婚してから更に息苦しいものになった。
別に、再婚相手の人はとても素晴らしい女性だと思う。
それに、彼女の連れ子………兄の新しい弟になる子だと紹介された子は僕と同じ年で僕と同じ男の子だったけど、女の子に見間違う程に愛らしく、僕よりもずっとずっと【弟】として相応しかった。
それはきっと彼もそう思っているのだろう。
彼はいつも兄にべったりだったし、時折兄が居ない場所では兄や父に疎まれている僕のことを汚物を見るような目で見ていた。
………心配しなくても、父の子は君と兄だし、兄の弟は君だけなのに。

「どうしてお前はあの子に優しくしてやれないんだ!」

ある日、僕は父と兄からそう怒鳴られた。
彼はどうやら父や兄に僕から嫌がらせを受けていると言ったらしい。
嫌がらせ、何のことだろう。
父や兄から言われたその【嫌がらせ】の内容は、どれもこれも身に覚えのないことだった。
そもそも、僕から近付きもしてないのに何を言っているんだろうか。

「あなた方がそうだと仰るなら、そうなのでしょう。」

僕はやったともやってないとも言わなかった。
父は激昂して僕の頬を叩いたけれど、もう僕は痛いとも思えなかった。
ただ頭を下げて部屋を出る。
嫌いなら、追い出してくれれば良いのに。
それでも僕から出て行かないのは、変に騒ぎになって連れ戻されたら嫌だからだ。

「ダッサ。早くこの家から出て行けば良いのに。」

僕に割り当てられた部屋に戻る途中、彼からそう言われた。
そうですね、僕もそう思いますと返せば怪訝そうな顔をされた。
同意しただけなのに、なんでそんな顔をされなければいけないのだろうか。
そうは思うが父の子である彼の方が立場が上なのだからそれ以上の口答えはせず、頭を下げてからその場を立ち去った。

ふと、またお母さんが恋しくなったけれど、頬が腫れているだろう今鏡を見てもきっとお母さんに似てなくて余計に恋しくなるだけだから、今日は鏡を見なかった。

*****

状況が変わったのは、その日から程なくして。
彼が僕のマグカップを割ったことだった。

「ご………ごめんなさい!」
「ケガは無いか!?おい!謝ってるんだから許してやれ!」

わざとらしい涙を浮かべて謝る彼の声も、理由も聞かず彼の心配だけをして僕を罵倒するばかりの兄の声も遠く聞こえる。
お母さんと僕のマグカップ。
この世界でたった一つしかない、唯一無二のマグカップ。
泣いてはいけない、僕よりも可哀想な人はいっぱい居る。
そう思うのに、視界がぼやける。

「ごめんなさい………おかあさん、ごめんなさい………」

かき集めた破片が、僕の指を傷付ける。
きっと、マグカップを大切にできなかった僕をお母さんが怒っているんだと思った。
頬の腫れはまだひいてなくて、鏡の中にお母さんが現れることはない。
もしかしたら、もうお母さんは僕のことを許してくれないかもしれない。
そう思うと、悲しくなった。

『世界には、貧困に苦しみ死んでいく子供達がいます』

背後でTVCMが流れている声だけが、僕の耳にハッキリと聞こえた。
僕よりも可哀想な人はいっぱい居る。
だから僕は可哀想じゃない。
けれども、僕だって悲しいと感じることはある。

「お、おい!どこに行くんだ!」

兄の声がぼんやりと聞こえる。
もしかしたら、マグカップを更に壊したいのかもしれない。
でもこれ以上壊されたらもう二度とお母さんは僕に会ってくれないかもしれない。
どこかに隠そう、そうしよう。
これ以上マグカップが壊れないようにすれば、お母さんは僕を許してくれるかもしれない。

でも、どこに隠そうか。
どこで守ろうか。
分からない。
どこが安全なんだろうか。

僕は可哀想な人達よりもずっと安全な場所な居たのに、安全な場所を知らなかった。

*****

『無能のクセに』
『どうせ顔だけだろ?』
『カラダで稼いでるんじゃないのか?』

いつもいつもいつも、俺の評価にこびりつくのはソレだ。
高校生の頃から始まったそれは、大学生になっても社会人になってもこびりつく。
どうしようもない奴ら。
そして、どうしようもない俺。
結局全部から逃げるために、ブラック企業だって分かってて今の職場に飛び込んだ。
分かってて、しかも望んであの会社に入ったんだ。
他の奴らより多少心は楽だったが、それでも毎日、日付が変わっても続く労働は元々そう強くない俺の心を削っていく。

癒されたい。
甘やかされたい。
甘やかしたい。

俺は自分で言うのもなんだが、そこらのアイドルに負けない位には顔が良い。
だけど、だからだろうか。
周りが勝手に牽制しあって告白された覚えすらないし、俺自身も誰かを好きになったことがない。
つまり、恋人が居たことがないのだ、俺は。
でも人肌が恋しくならない訳じゃないし、他人の愛が欲しくない訳じゃない。
寧ろ飢えていた。
誰かを愛したい。
誰かに愛されたい。
でも、俺から何かをするという勇気が無かった。

「ねぇ、君。」
「………?」
「誘拐、して良い?」

だから、だからだろうか―――
帰り道の公園で、割れた何かの破片を抱き締めるように持ちながら虚ろな目をしているあの子を見付けた時、俺は普段思わないことを思ったし、普段なら絶対しないような行動をした。
時刻は午前二時十六分。
そんな時間にこんな所で、幾つか知らないけどどう見ても未成年の男の子が居たら、どんな扱いされたって文句は言えないだろう?
ましてや、頬を殴られたのか醜く腫らして皮膚を変色させた男の子だ。
嬲り殺されるかもしれない。
そういう趣味の男にレイプされてたかもしれない。
そう考えると、誘拐するだけで何も考えてない俺はずっとずっとマシな気がする。

「………誘拐じゃ、ないよ」
「え?」
「お兄さんは落ちてた物を拾っただけ。そうでしょう?」

しかしあの子は、虚ろな目をしたまま俺の暴論を許した。
今思えば、あの子は俺以上にギリギリだったし、俺以上に誰でも良かったんだと思う。
それでも俺は頭が回ってなかったから、割れた破片を持ったままのあの子を抱えて帰った。
人一人、とても重かったけれど、不思議と苦じゃなかった。

*****

「お兄さんの好きに呼んで。」

あの子はそう言ったから、俺は遠慮なくあの子のことを【サツキ】と呼ぶことにした。
俺が犬を飼ったときに絶対に付けたかった名前だ。
由来を言えば、サツキは特に不快に思うこともなくじゃあお兄さんのわんこだねと笑った。

サツキが持っていた破片の理由を聞いたら、流石に捨てられなかったから、隠すというていで実家から送られたせんべいが入っていた缶に入れた。
ただ入れるだけだと味気なかったから、ずっと前に粗品で貰って一度も使ってなかったキッチンペーパーを開けて、底に敷いてその上に置くことにした。

「いいの?」
「良いよ。お母さんも、ふかふかのベッドで寝た方が嬉しいだろうし。」

俺がそう言えば、サツキは嬉しそうに笑った。
サツキ自身気付いてないみたいだけど、破片と鏡に映る自分を【お母さん】と同一視している節があった。
だから俺も、そこに合わせることにした。
本当は正すのが【普通】で【常識的】なんだろうけど、そもそも俺達は【誘拐犯】と【被害者】だ。
今更常識がなんだの言われても、どうしようもない。

「俺達も寝ようか。」
「うん。お母さん、おやすみなさい。」

缶の中の破片に向かって、サツキは手を振った。
サツキのお母さんは、一体どういう人なのだろうか。
誰に許されなくても良いけど、サツキのお母さんには許されたいなと思いながら布団に入る。
勿論、サツキも一緒に。

*****

サツキを誘拐して、早いもので半年経った。
俺の帰りが毎日遅いのは変わらないし、休みの日は泥のように眠るのも変わらない。
サツキに相当寂しい思いばかりさせてるだろうことは分かっているけれど、サツキが家事を楽しそうにしたり、俺と一緒に眠ったりする姿に、つい甘えてしまう。

「俺、サツキに甘えてばかりだ。」
「お兄さんは僕をめいっぱい甘やかしてくれるよ。」

甘やかしたいと、休日の午後十二時に寝起きのまま駄々を捏ねれば苦笑される。
これじゃあどちらが年上だか分からない。
サツキにめいっぱい寂しい思いをさせておきながら、サツキが水を取りに行くためにちょっと俺から離れただけで寂しいと思ってしまう。

「俺、転職しようかな。」
「どうして?」
「サツキともっと一緒に居たい。」

マジでそろそろ逃げるのを止めた方が良いのかもしれない。
周りの目とかも気にせずサツキと一緒に居るために、まともな職に就こう。
給料が下がろうとも構わない。
………いや、俺は構わないけどサツキはどう思ってるんだ?

「貧乏は嫌?」
「ん?嫌じゃないよ。お兄さんが僕を捨てないなら、それで。」

差し出された水を受け取りながら、一応確認する。
俺と一緒の想い。
嬉しい。
好き。

「あっ、そっか。」
「ん?」
「俺、サツキのこと好きだわ。」

声に出せば、はっきりと俺の心の中に入って来る。
まだ出会って半年だけど。
誘拐犯と被害者だけど。
それでも俺は多分、あの公園で出会った時から好きになったんだと思う。
ぽってりとした一重で鼻ぺちゃで、正直どこにでも居るような顔だ。
それでいて、サツキの思考はちょいちょい【普通じゃない】所もある。
それでも俺は、この子が好きなんだと思った。

「へ?」
「ねぇ、ねぇ、サツキ。ストックホルム症候群でも良いから、俺を愛して。」
「すと………?なんだか分からないけど、僕もお兄さんが好きだよ?」

そうじゃないんだよなぁとは思うけど、今はそれでいいやとも思う。
時間はまだあるし、無事に転職出来てからゆっくりと口説いていこう。
他人を口説いたことなんてないけど、まあ、時間とフィーリングでなんとかなるだろう。

だって半年経つのに、サツキの誘拐に関するニュースなんて流れてきてないんだから。

*****

そんなつもりじゃなかった。
俺は半年前、その言葉はとっても軽くて、そしてとっても重いんだと身を以て思い知った。

羨ましかったんだ。
どこにでも居るような顔をしているクセに、あんなにも美しい兄と父を持っているアイツが。
だから奪おうと思った。
今思えば、俺だって再婚相手の連れ子ではあるものの【家族】なんだから、アイツに嫉妬する必要もなかったし、アイツを陥れる意味なんて勿論無かったんだ。
でも、あの時はアレが最適だと思ってた。
何しても無反応なアイツ自身も気に食わなかった。
なのに―――

『ごめんなさい………おかあさん、ごめんなさい………』

割れたマグカップの破片で傷だらけになりながらも、そう言って涙を流すアイツに一気に頭が冷えた。
俺は、何をやっていたんだろうか。
彼を孤立させて、何をしたかったんだろうか。
彼が父や兄に何故か疎まれていることは知っていたし、分かってた。
理由は分からなくても、ちゃんと理解していたのに。

彼は迷子のような表情で破片を抱き締めたまま、ふらふらと部屋を出て行った。
でも俺も兄も、てっきり自分の部屋に帰ってるんだと思ったんだ。
だからちゃんと片づけたら謝ろうと思って、掃除をしながら兄に今まで騙していたことも含めて謝罪して、兄と一緒に彼の部屋に行った。
許してもらえるとは思ってないけど、罪滅ぼしをしたいんだと思って。

けれども部屋は、もぬけの殻だった。

一体どこに?
呆然とする俺の横で、兄が何かに気付いたような仕草をして玄関へと走った。
靴はある。
でも、彼の姿は家中を探してもどこにも居なかった。

俺と兄は父が戻ってから、正直に告白して彼が居なくなったことを報告した。
しかし父は眉根を寄せるだけで、何も言わなかった。
寧ろ外を探そうとする俺と兄を止める始末で………

俺のせいだと、思った。

もしも彼が殺されていたら。
もしも彼が危険な目に遭っていたら。
それは全部、調子に乗った俺のせいだと思った。

俺と兄はこの半年間毎日、新聞やニュースで彼位の年頃の男の子のニュースが流れてないか確認し続けた。
もう近くには居ないかもしれないけれど、それでも学校から帰って近所中を、休みの日は市外も駆けずり回って探した。
子供の俺達には、それしかできなかった。

『世界には、貧困に苦しみ死んでいく子供達がいます』

ニュースをチェックしていたTVが、もう何度も目にしているCMを流し始める。
でも俺にとっても、多分兄にとっても、どうでも良い話だった。
俺と兄にとって、彼以上に可哀想な子なんて居ないんだから。



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