忍不忍

父のことを、正直な話まともに父親だと思ったことはなかった。
母の番。
配偶者らしき人。
それだけ。
母ではない番のΩとできたαの子供が居たので、精々あのクソ生意気なガキの父親なんだなという認識しかなかった。
けれども一応戸籍上俺の父親であったし、土地も父の名義だったので何かと彼とコンタクトを取らなくてはならなかったのは、正直苦痛でしかなかった。

けれども俺自身も‪α‬ではあったので、ある程度の歳になれば自分で金を稼ぎ、所謂資産家の一人に名を連ねることもできた。
成人する頃にはもう土地を持ち母を養っても余裕がある程の資産を手に入れていた俺はふと、あることに気付いた。
もう父の助力も許可も何も必要ないのでは、と。

元々父が俺が寄越した書類をろくに見もせずサインだけをすることは知っていた。
だからこそ俺は父が普段依頼している弁護士に依頼して、一枚の書類を作成してもらった。
土地譲渡に関する書類を、一式。
駄目で元々、いけたらラッキー程度に思いながら正式な手続きを踏んで送付した書類は、
意外にも、なのか、やはりというべきなのか、父のサインと共に帰ってきた。
父は母や俺に何かを譲るのを異常に嫌う。
しかしそんな父がこうしてサインをしたということは、俺からの書類は何も精査していないということだ。

―――一言で言うならば、味をしめた。

俺は実家で雇っていた父の息がかかった使用人達の雇用契約に関することも同じ手口で【正式に】譲渡してもらい、全員解雇して新しい使用人に入れ替えることに成功した。
流石に母は勘付いたのか何か言いたげな顔をしたけれど、それでもとうとう言葉に出すことはなかった。
変なことを吹き込まれ母に嫌がらせをする使用人達が消えて、家中の空気が良くなったことは確かだったからだ。

そうして最後に、俺は母が病を患った際に離婚届を父に送った。
勿論、母の直筆だ。
病院に入院する際、夫である以上は父に報告しない訳にはいかないというのが、俺にとってはなかなかに苦痛だった。
けれど番であっても、婚姻関係でなければΩからαの面会を拒否することが可能だった。
立場の弱いΩを保護する為のシステムで、俺は母にそれを使わないかと相談した。

父にバレれば芋づる式にあの親子にバレて、ゆっくりと療養することができないだろうということが目に見えて分かっていたから。

それは母としても危惧していることだったのだろう。
療養先の病院にも、そこに居る他の患者にも迷惑かけてしまうという可能性。
結局、母は父と離婚する方を選び俺には離婚届を、そして医師には父の名前を記した面会拒絶に関する書類を渡した。

『俺、なんの為に生きてきたんだろう………』

流石にこれは父もなにか言ってくるのではと思ったが、父は予想以上にアホだったらしく離婚届はあっさりと父の名前を伴って戻ってきた。
その離婚届を見ながら、母はポツリとそう呟く。
一人のαの自分勝手に振り回された、哀れなΩ。
小さくなってしまった肩を震わせながら、ただ静かに涙を流した。

『俺を産むためだろ。』
『違いますよ!可愛い嫁と孫を見るためです!』

俺の言葉に被せるように、俺の愛しい番は母にそう言った。
母と同じ、男のΩ。
父と母と同じように、運命の番。
それでも彼は【運命の番】に怯えていた俺を何度も何度も口説き、気が付けば俺よりも母と仲良くなっていた。

『え?妊娠してるの?』
『まだですけど。でもお義母さんに早く見せたいから、お義母さんはもうちょっと頑張ってください。』

ちなみにこの数日後、彼が妊娠していることが発覚し母は今まで見たことない程に喜んで涙を流した。
結局、孫の顔を見ることもなく母は静かに息を引き取ることになったのだが、
それでもその瞬間まで、日に日に大きくなる彼の腹を優しく撫でてはいつも幸せそうに笑っていた。

母が居なくなった実家はとても静かなように思えたが、彼に良く似たやんちゃな息子が産まれてからは今までにない程に賑やかになった。
三歳になると何もかもに興味津々で、本当に目が離せない程になっていたがそれでも毎日が楽しかった。
私も彼も、母の死によってポッカリと空いた穴が半分程埋まった心地になっていった。

それでもふとした時に、母の姿を、母の言葉を思い出す。
あの長い坂道で、今の息子よりも大きく重かっただろう俺を抱えて懸命に登っていたあの光景を思い出す。
そうしてその鮮明な記憶はやがて、セピアに染まり色褪せていくのだろうか。

それは悲しいことだなと思う。

それでもきっと、優しい母はそれでいいのだと笑うのだろう。
悲しむばかりが、偲ぶことではないのだと。
漂いながら過ぎゆく中で思うことこそが、偲ぶことだと。

「としゃまー!どこー!?」
「あ!急に走ったらコケるよ!」

息子の私を呼ぶ声と、彼の焦りを滲ませる声が遠くから聞こえる。
今は彼らが私の家族、私の宝だ。
私が守るべきもの、母が最期の最期まで愛した唯一。

「………ですので、どうぞお引取りください。あの方と私は他人ですので。」
「ですが!」
「今まで一度も連絡を取らなかったのに、今更でしょう?」

俺は父だった愚者からの使者に淡々とそう告げて席を立った。
どうやらあの男は不治の病を患っていたらしい。
ご愁傷さまだとは思うけれども、それだけだ。

「………あの方は、ご母堂が亡くなられたことも離縁が成立していることも知らないのです!」
「亡くなったことは報せてないのでそうでしょうが、離縁に関してはおかしな話ですね。離婚届には確かに父の直筆と捺印がありましたし、その後提出し成立したことに対する証明を書面で送った筈ですよ。」

どうせあの男のことだ。
見ずにそのまま失くしたのだろう。
だがこっちは最低限の礼は尽くした。
これ以上なにか望まれてもどうしようもないし、どうしてやりようもない。

「貴方のお父上ですよ!?」
「五つの時以降、一度もお会いしたことはないので血縁上だけのことを言われても困ります。ましてやあの方の援助は十六の頃から一切お断りした上で、金銭も全てお返してして承認のサインも頂いてます。」

勿論、直筆のものだ。
どうせいずれそう言ってくるだろうと弁護士からアドバイスされ、危険性の高いものから低いものに対して全て書面で残し、全てサインを貰えたかも一枚一枚丁寧に確認して今も後生大事に金庫に保管してある。

「そんな薄情な!」
「薄情なのは今まで一度も………未だに婚姻関係にあると思いながらも母や私の安否を確認することもなく暮らしていたあの方では?」

言葉にすれば思った以上に大きくなってしまった怒りに身体が勝手に震えだす。
それでも努めて淡々とそう言えば、使者はびくりと身体を跳ねさせて俯き黙った。
何か言ってみたらどうだと、追い詰めたくなる。
それでもそれはいけないことだと、母の優しい声が頭に響いた。

「………お客様のお帰りだ。お見送りを。」
「はい。」
「お、お待ち下さい!」

使者の叫びを無視し、俺は背を向けて歩き出す。
あとは使用人達が何とかするだろう。
そっと一つ、溜息を吐いて俺は息子達の所へと向かう。
振り返りはせず、もうこの溜息だけで俺はあの男に関する何もかも済ませることにした。
これ以上の醜い争いは、母も俺の宝達も、誰一人望んでいないのだから。



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