切欠は、きっと彼にとって不本意であろう瞬間だった。
たまたま見掛けた男同士の言い争い。
浮気だの別れるだの言っていたので、痴話喧嘩かと思って野次馬根性でそちらの方を向けば、
そこに居たのは全く知らない男と、ろくに話したことのない同期の男だった。
………アイツ、ゲイだったのか。
それは嫌悪というよりも、驚愕の感情だった。
何よりも驚いたのが、同期の男が泣いて縋っている姿だった。
会社での彼は地味で根暗で………あんな風に感情を顕にする姿なんて見たことがなかった。
羨ましいと、思った。
普段は怯えたような感情しか出さない彼から、あんなにも感情豊かに愛してもらえるあの男が。
その日からだ。
俺が彼のことを気になり始めたのは。
要領が悪く不器用でコミュ障の地味な男。
本来ならば誰もが選ぶこともないだろう存在。
あの喧嘩だって、男がお前が浮気相手だと叫んでいたのだから、つまりそういう事なんだろう。
それでもきっと彼は愛していたんだ。
真っ直ぐに、あの男を。
あの男とどこで出会ったんだろう。
どこで親しくなれたんだろう。
俺は同じ会社で同期だけど、互いが互いに関係の無い部署で働いているし、俺も彼も非喫煙者だ。
なんの切欠もない俺は、彼と会話をすることすらままならない。
きっと彼の中で俺は、同期だとすら認識されていないと思う。
でも同じ社内に居るんだ。
視界には入れるかもしれない。
その時にもしも好みのタイプと一致すれば、意識してもらえるかもしれない。
でも彼の好みのタイプってどんな人なのだろうか?
俺は朧気な記憶をフル活用して、ガタイが良くツーブロックの髪型をしていたあの男を思い出して取り敢えず真似てみることにした。
とはいえ髪型は簡単だけれど体格は時間がかかる。
俺は本格的なジムに通って、肉体改造に勤しんだ。
「最近鍛えてるねー!色男味が増してるじゃん!」
「ええ、ちょっと………」
先輩から言われた言葉を、曖昧に笑って流す。
話したこともないけど気になる人に意識して欲しくて、なんて。
恥ずかしくて言えなかった。
トレーニングが俺に合っていたのか、わりとスムーズに体格があの男に近付いていった。
とはいえそこまで来るのに二年かかったけれど、俺的にはもっとかかると思っていたから嬉しかった。
きっとこれで彼に意識してもらえる。
未だに彼と話したことはなかったけれど、それでも期待を抱かずにはいられなかった。
話しかけたことはなかったけど、俺はあの日からずっと、彼を見ていた。
彼はあの日から一ヶ月程かなり落ち込んでいたから、きっとあの男とは別れたのだろう。
それがいい。
浮気するような男なんて、彼には相応しくない。
アレから二年経っているけど、彼の日常は淡々としていたし家に誰かを招いた形跡もないから、きっと新しい恋人だって居ない筈。
俺の為に、空けてくれたんだよね。
今日、彼は珍しく遅くまで残業していた。
彼が起こしたトラブルが起因ではないのに、元凶である彼の後輩は当たり前のように彼に仕事を押し付けて帰って行った。
彼の最寄り駅の終電はもう終わった。
それでもセキュリティ以外の電気は落ちるから帰らざるを得ない。
今社内に居るのは俺と彼だけの筈だ。
チャンスは今しかない。
「おい、帰るぞ。」
「えっ?えっ!?なんで居るの!?」
さぁ話しかけようとした瞬間、それよりも早く彼に声をかけた奴が居た。
ここには俺と彼しか居ない筈なのに、何で?
一体誰が………?
俺は彼に気付かれないようにそっと室内を覗いた。
そこに居たのは彼と―――
「(なんでアイツが!)」
俺と彼と同じ同期で、俺と同じ部署に居る俺を無駄にライバル視してくる男………。
仕事は出来るがプライドが高く、何かと突っかかって来るアイツが、何故彼と話をしている?
缶のお茶まで差し入れて、ピッタリと身を寄せて、一体何をしているんだ?
「そろそろ電力も落ちるから保存して、んでもって用意しろ。」
驚く彼の頭を撫で、車の鍵をチラつかせながらアイツは笑う。
気安く彼に触るなと、怒鳴りたいのをグッと堪える。
そもそも彼はアイツみたいな奴は苦手なタイプのように思える。
もしかして無理矢理?
そうだ、そうに決まってる………だったら早く!
「ふぁぁ!ありがとう!助かる!」
そう思ったのに、彼は嬉しそうな、それでいて甘えたような声でアイツにそう言った。
しかも夢にまで見た、蕩けるような嬉しそうな笑顔で。
………なんで?
あんな偉そうで、嫌味ったらしくて、乱暴な口調の男は彼には似合わない。
そもそもアイツは彼の好みの見た目と違うだろう?
確かに多少ガタイが良いけれど、元恋人の男や今の俺程じゃない。
なのに何で、当たり前のようにそこに居るんだ?
混乱する俺を他所に、彼が甘えるようにアイツの袖を掴む。
恥ずかしそうに伏せられた目が、震える唇が、何度も妄想で犯した彼の何倍も色気があった。
「なぁ、明日から土日だろう?」
「ああ。」
「あの………君の家じゃダメ?」
ガタンっと音がして、彼とアイツが重なった。
何をしているのかなんて、言われなくても分かる。
なんで?なんでアイツなんだ?
俺はずっと努力してきたのに、なんで?
ふと、興奮した面持ちのアイツと目が合った。
アイツはまるで憎むように俺を睨みつけた後、自分の体を使って俺の視界から彼を消した。
「良いぞ。一日中寝る羽目になっても良いならな。」
「そのつもりで………言った………」
それは明らかに不自然な挙動なのに、彼は特に気にした風もなくアイツと会話を続けている。
恋人同士のような、甘い会話を。
俺はそれ以上見たくも聞きたくもなくて、バレないようにそっと踵を返して逃げ出した。
ここ二年の俺の努力は一体何だったんだろうか?
なんでアイツは選ばれて、俺はダメなんだ?
逃げ込むように車に乗って、荒い息のまま涙を流す。
視界に入れなかった俺と、入れたアイツ。
何が違う?
一体どうするべきだった?
あの笑顔の先に俺も居たかったのに、横から奪われてしまって。
ずっと見ていたのに、気付かなかった。
アイツと彼が恋人だったなんて、関係を持っていたなんて。
裏切られた気分だ。
俺だけに用意された場所だと信じていたのに、一体いつから裏切られていたんだろうか。
俺だけの貴方だったのに。
それでもあの蕩けた声は、一瞬だけ見えた色気のある恥じらう表情はどうしようもない興奮を俺に与えて。
俺は衝動のままに車の中で一回だけ抜いた。
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