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―――弟は、運の無いメールΩだった。

確かに、世の中のΩの中では恵まれている方だろう。
だがそれは、あくまで私達家族が護ってきたからだ。
恵まれていることと運が良いことは違う。
俺達家族という名の檻から出て行ってしまっては、冗談じゃなく呆気なくその生涯を閉じてしまっていただろう。
それも、他人に惨たらしく殺されて。
弟もそれをわかっているから、檻から出て行かないのだ。

―――運の悪さを確信したキッカケは、弟が中学生の時だった。

弟が、同じ学校のαに犯されそうになった。
言い方が悪いが、言葉にすればΩにはよくある話なのかもしれない。
しかし問題は、その時の状況だった。
【発情期でもなんでもない弟】が、【発情期中の他のΩ】の【フェロモンに充てられラットになったα】に襲われたのだ。
しかも肋骨や腕が折れる程に抑えつけれ、それでもシラフだから必死に抵抗した弟は奥歯が折れる程に殴られて。
あまりの出来事に弟は前後三日の記憶を失ったのが、不幸中の幸いか。
それでも、血塗れでぐったりとした状態で病院に運ばれた弟を見た瞬間、私は死にたくなった。
他人がどう思おうとも、私にとっては目に入れても痛くない程に可愛い可愛い弟だ。
仔狸のようにちんちくりんでぷにぷにした生まれてすぐの弟を抱き上げた時に、絶対にこの子を守るんだと幼い私は決意したのに………!

『申し訳ございません!守れなかった!坊ちゃんを守れなかった!』

だが、それでも私以上に後悔の念に駆られていたのは私の家で代々住み込みの庭師をしてくれている家の息子だった。
彼は弟の一つ下の学年だったのだが、本当に偶然にも彼が現場に居合わせてくれたから弟は犯されずに済んだし、彼自身も大怪我を負いながらもβの身で弟からラットになったαを引き剥がしてくれた。 それでも、弟が死にかけているという事実に彼は傷付き涙した。
いいんだとは言えなかった。
弟が怪我をしたことを、例え慰めの為でもよかったなんて口に出したくはなかった。
それでも、そこまでして弟を守ってくれた彼を責める言葉なんて、何一つ出て来なかった。
感謝こそすれど、責めようだなんて思えなかった。

『………弟が死なずに済んだのは、君のおかげだ。』

そんなありふれた言葉しか、彼にかけることが出来なかった。
できれば彼が、この出来事に振り回されなければ良いとも思ったが、それを口に出すのは違うだろうとも思った。
だから、それ以降弟にピッタリと寄り添い、そして自らを鍛え上げ軍用犬のように目を光らせる彼にαとして不甲斐なさを感じながらも好きにさせるより他にはなかった。
周りがどれだけ歪だと笑っても、弟が寄り添える存在というのはとても貴重だと分かっていたからだ。

しかしそんな私や彼の想いも虚しく弟の運の無さが決定的になったのは、弟が高校生の時だった。
本当に運が無いとしか言いようが無い事件が起きた。

今回も弟は何も悪くない。

フィメールΩとメールΩを手玉に取っていたメールαの修羅場に巻き込まれたという、これまた言葉だけだとよくある話なのだが、何故かそこにたまたま通りがかった弟が【コイツも泥棒猫か!】と思われて二人のΩから刺され、ビビったαは弟を放って逃げたのだ。
騒然となるその場で、皆が皆何故か弟が悪いのだと思い込み救急車を呼ぼうとする者が居らず、慌てて駆け付けた教師と彼が漸く呼ぶという、今思い出してもそもそもの原因のαも、実行犯のΩ二人も、そして謂れのない罪で見捨てようとした全員を縊り殺したくなるような忌々しい事件は、そもそもその駆け付けた教師がどうでもいい用件で彼を呼び出し職員室で長々と話している最中に起きたものだった。

この日以降、弟がというよりも私達家族が弟を外に出したくないと感じた。
そして学校には行かなければならないと踏ん張る弟に、行かなくても良いと説得してくれたのは庭師の彼だった。
逃げる訳ではない。
ただ、世の中には許されないこともあると教えなければならないと。
そしてこれ以上傷付いて欲しくないと、泣きながら彼が説得をしてくれたのだ。

『それでも坊ちゃんが学校に行くというのならば、これ以上俺が目を離したせいで坊ちゃんが傷付くのを黙っていられないので俺は学校を辞めて四六時中坊ちゃんに張り付きます。』

まぁ、その際の説得には多少の脅し文句も含まれていたが。
それは困ると焦った弟は、彼の思惑通り家に篭もり大人しく護られる選択肢を取ってくれた。
それ以外の選択肢を奪っていると、責めるならば責れば良い。
ただ私も彼も、弟にこれ以上傷を負って欲しくなかったから必死にだったのだ。
例え世間一般に言えば監禁だとしても、それでも今度は弟は本当に殺されるかもしれないということが、恐怖でしかなかったのだ。

今回の件、学校側は深く謝罪をしたが私も父も祖父も関わった人間を許すつもりはなかった。
弟を刺したΩ達も、そもそもの原因を作ったαも、助けようとしないばかりかただ楽しそうに笑っていた野次馬共も。
勿論、下らない自慢話をする為に弟と彼を引き離した教師も。
誰一人許さないと告げて追い返した。

Ωの家とαの家は、謝罪にすら来なかった。
許すつもりはなくも、その態度に我が家を随分舐めているのだなと分かりきった態度に怒りよりも呆れが出てくる。
手始めに父や祖父の経営する会社………子会社も含めて、彼らの家が経営する会社との取引を全て止めた。
そして事実だけを流す。

『恋人との修羅場で、何も関係のない通りすがりの一般人を刺して逃げた。』
『自分のせいで仮にも肉体関係を持った人間が傷害事件を起こしたのに、逃げた。』

噂は瞬く間に広がり、やがて尾びれ背びれを付けて元気に泳ぎ出す。
そうしてもう扉を立てられなくなった程に広がりを見せた頃には、その存在は消えてなくなった。
まだ足りないとは思った。

中学の頃とは訳が違う。
あの時のαは、蓋を開けてみれば半分被害者のようなものだった。
予期せぬ発情期で混乱するΩに、何も知らずに近寄ってしまったα。
そのαが抱いていた弟に対する仄かな恋心と、βなのに弟に当たり前のように寄り添う彼に対する嫉妬が乱暴な形で浮き彫りになってしまっただけだったというオチだ。
弟も記憶を失ってる。
二度と姿を現さないことを条件に、我が家は彼を許すことが出来た。

しかし今回は、勘違いによる明確な悪意と殺意だ。
何故許してやらないといけない。
家も金も失った?
だからなんだ。
それすら生温いと。

けれども優しく弱い弟は、それを望まなかった。
もう大丈夫だからと、震えながら笑った。
運が無かっただけだからと。



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