貴方に助けられた鶴です

その日は雪がチラつく程に寒く、けれども混み合った電車内は暖房が効きすぎて暑かったし、
そのせいで複雑に混ざり合った他人の体臭やら香水やらが鼻について、比喩表現じゃなくて本気で気分が悪かった。

―――朝はそうでもないのに………

この路線はいつも帰りが混み合っていた。
朝は寧ろ乗客が疎らで、上手くいけば座れる位には快適なのに、帰りはいつもこう。
しかも今日は雪だからか利用者が多い気がして、いっそ蹲ってしまいたかった。
それでも、あと三駅乗れば最寄り駅に着く。
それだけを頼りに、俺は吊革に掴まる余裕が無い程にぎゅうぎゅうになっているこの状況を耐えた。

『次は―――』

車内アナウンスが次の駅名を告げる。
その声が頭に響く位の頭痛に吐き気。
あまりの不快感に、果たして本当にあと三駅耐えれるのかと急に不安になってしまう。
次で降りる?
扉の近くをキープしているから、それは可能だ。
でもあと少し、時間にしてあと十分もない位なのに………?

「すいません、おり、降ります」

そんな時、慌てたような声が聞こえてすっかり俯いていた顔を上げた。
人波をかき分けてこっちに向かって来たのは、底辺で有名な公立高校の制服を着た男。
ヤンキーが多いって聞いてたけど、普通ってか地味だなとぼんやり考える。
すると何故かその地味男は、俺の手を掴んでそのまま開いた扉から俺ごと下車をした。

「ごめ、ごめんなさい………あまりにも、つ、辛そうだったから………」

体調の悪さと突然過ぎる出来事にされるがままだった俺の手を引きながら、男はそう言った。
なんだ?
一体何が目的だ?

「降りる、え、駅じゃないとは思うけど、暫く休んだ方が良いから」

混乱する俺を余所に彼はホームの自販機で水を買うと、
経験あるんだと引き攣ったようなぎこちない笑みを浮かべながら蓋を開けるとそれを渡してくれた。

「急いで電車から降りた、っ、とた、途端に吐いちゃって………あの時の俺と同じような表情だったから………」

余計なことしてごめんなさいと謝りながら、彼はハンカチまで手渡してくれた。
確かに、彼の言う通りあのまま乗っていたら吐いていたかもしれない。

下心の無い、無償の好意。
自分で言うのもなんだが、俺は顔が良い。
だからだろうか。
男だった女だって、良い意味でも悪い意味でも下心ばかり抱いて俺に近寄ってくる。
でも今目の前に居る彼は違うと、俺はまるで確信にも似た直感を抱いた。
この人は、俺を―――

「あの………」
「ごめんなさい、俺もう行かないと。大丈夫、ですか?えき、駅員の人呼びましょうか?」

本当に困ったように眉根を寄せる彼に、俺は触れようと上げかけた腕をそうと気付かれないようにゆっくりと下げて首を横に振った。
多分、このままじっとしていれば吐き気も落ち着くだろう。
けれどどうせならば、駅員ではなくて彼に傍に居て欲しかった。
しかし今日初めて話したような人間が、時間に追われている彼に対して求めて良いモノでもないだろう。

「大丈夫、ありがとう。」

聞き分けの良い男のフリをして、今日の所は引き下がる。
だって彼はさっき言ったじゃないか。
【経験ある】【電車から降りた途端】と。
つまり彼は普段から電車に乗っているという事だ。
今まで気付かなかったけれど、もしかしたらずっと同じ方向の同じ電車に乗っていたのかもしれない。
チャンスなら、いくらでもある。

「またね。」
「………」

俺の言葉に安心したように息をついた彼は、しかし別れの挨拶には何の言葉を返す事なく会釈しただけで踵を返して去って行ってしまった。
そんな反応を今までされた事がなくて新鮮で、俺は無意識に彼が貸してくれたハンカチを握りしめた。

―――彼が、欲しい。

彼の喜ぶ顔が見たい。
俺がする事に対して、笑う顔が見たい。
彼の泣き顔が見たい。
俺のされた事に対して、泣いている顔が見たい。
彼の蕩けたような顔が見たい。
俺に抱かれて、蕩けきった彼が見たい。

俺は生まれて初めて、他人に焦がれた。
チャンスはいくらでもある。
ハンカチだって、良い言い訳になる。
否、彼には申し訳ないけど、これは貰おう。
俺の宝物にしよう。
だって恩とか義理とかそんな感情しか持ってないと思われても嫌だし、彼にもたったそれっぽっちだけで俺を想って欲しい訳じゃない。
俺は握りしめてしまったせいでしわくちゃになったハンカチを丁寧に折り畳むと、そっと嗅いでみた。
彼らしくない、甘いムスクの香りがした。

人生はままならない。

やはりという気持ちが半分。
彼は俺のことなんて覚えていなかった。
帰りの電車が同じだという事が分かって軽く会釈してみたけれど、
そもそも俺と目が合ったこと自体に何の反応もなかったから当然のように無視された。

あの日。

彼が俺を見付けてくれた特別なあの日はきっと、彼にとっては特別でもなんでもない日常だったんだろう。
なんて優しい人なんだろうか。
目線の動きや吃りの症状を見る限り、彼はきっと人と関わりを持つことが苦手だろうに。
それでもきっと彼は俺みたいな奴を見付けて手を差し伸べてくれるのだろう。

特に何を映している訳でもない瞳で俯く彼を盗み見る。
真隣に居る俺に、彼はけして気付かない。
それでも俺は、きっとこの先彼を見間違うこともなく見付け続けるだろう。
帰宅ラッシュで混み合う車内で、俺は誰にも気付かれないように慎重にスマホのカメラを起動した。
途端に彼はポケットを弄りだしたからバレてしまったかと焦るが、小さな機械を取り出しただけで別にバレた訳ではないようだ。
すっぽりと掌に収まるサイズの機械。
携帯会社のカタログで見たことあるそれは、所謂こどもケータイというやつだった。

スマホじゃないのか………可愛い………

その中に俺の電話番号が増える日が来れば、俺はどれだけ幸せになれるだろうか。
そんな妄想に浸りながら、俺はシャッターを押した。



閉じる拍手