震える程の雨の日に

―――その日は一日中、雨だった。

オーナーから頼まれたおつかいを無事にこなしつつ、俺は傘を差しながらぼんやりと帰路につく。
今日は直帰でも良いと言われている。
雨の日はやる気が出ない俺の事を本当によくわかっている。
オーナーさまさま、ってやつだ。

おつかい先でベタベタ触られた不快感を、水たまりを蹴り上げることで気を逸らす。
いつもだったら特になんとも思わない、寧ろどうでも良いとすら思うのに、何故か今日は不快だった。
触って来たオンナの香水も気持ち悪くて、まだ俺の体にまとわりついているような気分になる。
いっそ雨に濡れて帰ろうかと思ったが、東に見付かるとうるさいから大人しく傘をしっかりと差す。
怒られるのは、好きではない。
代わりに足を早めることにした。

バシャバシャと跳ねる水たまりが靴を濡らす。
ぐっちょりとしか感覚が気持ち悪いが、でも仕方ない。
靴は乾燥機で乾かして、服とかは洗濯する。
それくらいだったら、俺にも出来る。
なんでも出来るオーナーやピーチとか、努力してる東みたいにはなれないけど、俺も少しずつ、昔と比べたら出来るようになってる。
家事とか、ガマンとか。

俺は昔から怒りや不快感をガマンすることがどうしても苦手だった。
だから簡単に手が出てしまって、オーナー達には本当に迷惑かけまくった。
でも変わろうと思った。
俺はもうオトナだし、オーナーはアレだけど、医者になった東や警察になったピーチにはこれ以上迷惑かけてはダメだと思うから。
無理するなって三人は言うけど、無理しないと出来なかった。

息苦しいけど、頑張る。
じゃないとオーナーからも呆れられてしまう。
俺の両親が死んでから、オーナーは同い年なのに一生懸命俺を守ろうとしてくれる。
嬉しい。
だからこそ、俺はオーナーに守ってもらうに相応しい人間にならなければいけない。
家族という関係に胡座かいてたら、置いて行かれる。
オーナーはそういう人だ。

なんだか不安になって、俺は走る速度を早めた。
直帰して良いよと言ってくれたけど、一度ホテルに顔出そう。
最近新しくミセを出したから更に忙しくなったオーナーが事務所に居るかどうかは分からないけれど、それでも一番戻ろうと思った。
家に向かっていた足を、ホテルの方向へと帰る。
その瞬間ふと、何かが視界に映った気がした。

―――いぬ?

足を止めて、何かを感じた路地裏を覗く。
犬や猫は世話をしないといけないから、今の俺には無理だ。
いつもだったら、そう思って見て見ぬふりをする。
でも何故か俺は気になってしまって、路地裏の奥へと足を進めてしまっていた。

「なにしてんだ?」

果たして、そこに居たのは犬でもなく猫でもなく、人間だった。
小さい、人間のガキ。
雨に濡れながら、ただぼぅっと突っ立ってた。
俺の声に俯いてた顔が上がったけれど、それだけで何のリアクションもない。
質問の答えもなければ、俺に脅えた様子もなく、ただ立っていた。
普段ならば、イラついてぶん殴ってただろうガキ。

「風邪引くぞ」

でも何故かそんな気が起きなくて、もう一度声をかける。
それでもソイツは、何も言わなかった。
ただ空っぽの瞳で、俺を見つめる。
なんだか何もかも諦めているような、けれど何かに縋るような、そんな瞳に見えた。

「なぁ、生きたい?死にたい?」

その瞬間、俺は【コイツなら良いのでは】ないだろうかと思った。
何が、かは分からない。
けれどもコイツがもしも命を捨てたいと思っているのなら、俺が拾ってしまっても構わないと思ったのだ。

「………わか、分からない。」

けれども言われた言葉はどちらでもなかった。
分からない
自分が生きたいのか、死にたいのかが分からないだなんて。
それはもう死んでいるようなモノなのではないだろうか。

「で、でも、俺は………」

ギュッと眉根を寄せて、子供は呟く。
あ、泣きそうだと思った。
蹲って、きっと泣き喚くのだろうと思った。
けれどもそうはしなかった。
蹲ったのは予想通りだけれど、その子は静かに涙を流した。

「俺を見て、ほ、欲しい………とうめ、透明人間には、なりたくない………!」

世の中には、一定数努力しても報われない奴が居る。
どれだけ努力しても努力しても結果が実らなくて、周りからは怠けてるように見られて、それが悔しくて悲しくて、また努力する。
いっそ何もしない方が楽なのに、必死に自分の首を絞め続ける自分のような人間。
目の前のこの子も、きっとそうなのだろう。

「見えるよ。」

俺は他人の気持ちが分かってないと、よく叱られる。
オーナー達はそれでも良いから言葉を口に出す前に少しだけ考えなさいと言われて、ずっとそうしてきた
でも今、この子に対しては素直な言葉を言いたいと思った。
例えこの子の望まない言葉でも、この子を傷付ける言葉でも。

「見えるよ。だから、此処に来た」

周りから無視されてきたのかもしれない。
周りの人達はこの子を要らないと思ってるのかもしれない。
それならば、俺にちょうだい。
俺だけに見えた、俺だけの子。

「傘、持って」

俺の言葉に、素直に顔を上げて俺の傘に手を伸ばした。
俺はその行動を自分で誘導したにも関わらず、俺の好きなように解釈する事にした。
俺を求めてくれてるんだと。

「うっ、わっ!」
「傘しっかり持ってて」

傘を持った腕を引き寄せて、思いっきり抱き上げる。
小さな見た目通り軽いその体は、雨に溶けてなくなってしまいそうだったからしっかりと抱き締める。

「ねぇ、名前は?」

さっきまで空っぽだった瞳は、色んな感情で満ちていた。
驚きとか、怯えとか、困惑とか。
プラスの感情はきっとないだろうけど、俺が与えた感情で空っぽじゃなくなった事にとりあえず満足する。

「………ちぐ、千草。杉村千草、です。」
「ちぐさ………じゃあちぃちゃんね。俺は渡邊愛永。」
「わたなべ、さん」

別に愛永で良いんだけどなと思うけど、なんとなく口に出すのは止めておいた。
これが正解だったのか不正解だったのかは今でも分からない。
けれど結果的に千草が呼ぶ俺の名前はとても特別なモノとなったのだから、きっと正解だったのだろう。

ちぃちゃんを抱えたまま走り出す。
揺れる身体を必死にバランスを取りながら律儀に傘を差してくれるこの可愛い生き物を、一分でも一秒でも早く大好きなオーナーに自慢したかった。

俺が見付けたんだよ。
俺だけが、ちぃちゃんを見付けることが出来たんだ。



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